冬は必ず春となる

苦難にあっても信じきり祈りきることで必ず道は開かれる

姥捨て山計画、回避できました。

日蓮大聖人が弟子たちに送ったお手紙、御書の中に、「法華経を信ずる人は冬のごとし

冬は必ず春となる…」という御書があります。

冬は必ず春になるように苦難の真っただ中にあっても信心で立ち向かっていけば必ず幸福の軌道を進んでいくことが出来る。

また悩みや苦難を信心で立ち向かい乗り越えていくからこそ、何があっても負けない自分に成長できるのです。

 

特養に入っていた母が夏に病気になり入院しました。

退院した後、私と妹で病院の先生のところに話しをしに行くことになっていたのですが、施設から電話があり

「(母の)具合が悪いから施設の嘱託医の紹介状があるので、一旦 施設に取りに来てから病院に行ってください。」と言われました。

施設に行くと施設の看護師から「受診をお願いしてください。電話をくれれば、すぐ(母を)連れて行きますから。」と何度も何度も言われました。

心配して、すぐに母の様子を見に行ったら予想と違い、元気そうに食事をしていてホッとしました。



病院で先生と今後の母の治療について話しをして、「ここの病院で出来ることは限られていて

別の治療法の選択もあるけれど、この病院では、やっていないのです。」と言われました。

「大きな病院でやっているから、お母さんに出来るだけのことをしてあげたいのなら、その選択をした方が良いですよ。」と言われたのです。

それから母の具合が悪いこと、施設から紹介状を預かったことも伝えました。

「その治療法を選択するなら、施設には今こちらで電話して説明しますよ。」ということで

私たちの前で電話して施設に説明をしてくれて

「あとは施設の人と病院を決めてください。もし、その大きな病院で受け入れしてもらえない時は

うちが受け入れしますから。」と言われました。



施設に着くと「どう言う話しをしたのですか?本当はすぐにでも受診させたかったのですよ。」と、

それから何度も何度も「受診」「受診」と言ってきます。

母の状態の説明も何も無いまま受診ばかりすすめるのです。


「さっきの病院に電話をして受診をお願いしてください。」と言われたり、それがダメだと分かると

別の病院に電話させられ、受診の予約を入れさせられました。

それも、私達には全く土地勘の無い地域であるにも関わらず、病院の情報もくれずに、スマホで電話番号を調べさせられて病院を決めさせられ電話させられたのです。

私と妹は何が何やらさっぱり意味が分かりません。

分からないけれど「受診、受診」と何かを考える隙も与えられず、言われるままに電話をして予約をさせられたのでした。



その話の流れで、ちらっと「それで入院になったら、うちはもうそれで・・」と看護師が言いました。

どうやら今日、家族に何の説明も無いまま母を入院させて、その後は退院しても入所拒否をするつもりだったようです。

これまで一切、家族に何の説明もなく、寝耳に水でした。

その話を出した時もとにかく受診をさせたいらしくて、きちんとした説明をせずに「受診受診受診」の一点張りで、全く意味がわからない状態でした。

言われたのは「ここは病院ではない」っていうことだけ。

病院ではないのはわかっているし、治療してほしいとは思っていないし、具合が悪い時は病院に連れて行けば良いし。。

とその時は???疑問符でいっぱいでした。

「受診、受診」で考える隙を与えられず、受診の予約をさせられて、やっと解放された感じでした。



次の日、予約を入れた病院に受診させると、先生が「うちではこのくらいでは入院させられないよ。」と言いました。

すると付き添ってきた施設の看護師が、どうしても入院させたいらしく「朝は高熱があった」だの

「うちはケアワーカーが厳しい」だのと何度も何度も先生に言いました。

先生はそれでも「これくらいでは入院できない。」とキッパリ言ったのです。



この2日、私と妹は疑問符で頭の中がいっぱいで、施設に翻弄され疲労困憊でした。

「これって、どういうことなんだろう?」何が何だか全く意味が分かりませんでした。

何の疑いもなく信頼しきっていた施設の言うこと、やることが全く理解できなかったのです。

少し日が経ち、頭の中を整理して、ネットでいろいろ検索してみると、同じように知らずに

入院させられて特養を追い出されたケースが出てきました。

 

「今時、こんな「姥捨て山」みたいな話があるんだ。」とやり切れない気持ちになりました。

母の場合、高熱が出て急性期病院に入院したとしてもすぐに熱が下がり、一週間もすれば退院で、その先、入所拒否をされて母の居場所が無くなれば真冬の寒空に放り出されることになります。

出て行ってほしいなら、それなりの順番、対応の仕方というものがあると思うのです。

 

「これは大変だ!」と慌てて「次の母の居場所をとにかく見つけなくては」と兄弟に伝えました。

実家の住所のある区役所に相談もしました。

 

信じきって祈りきれば絶対、乗り越えていくことが出来る!絶対に乗り越える!

南無妙法蓮華経とお題目を真剣にあげました。

そしてネットで必死に探して、ある病院がヒットして出てきた時、一筋の光明が差した気がしました。

藁にもすがる気持ちでそこに電話をすると、そこの相談員さんはじっくり話を聞いてくれて、とてもホッとしたのを覚えています。

 

妹は妹で老健に。。

そこの相談員さんも、とても良い方で「施設は点滴を嫌がっているのだろう」と教えてくれたそうです。

「ここだと特養に入所するのと同じで、入所するまでに時間がかかってしまう、次の行き場所が見つかるまで、居させてもらえるようにお願いしてみては?」と言ってくれたそうです。

 

母のいる特養は出来たばかりの新しい施設だからなのか、入所している人はどこが悪くて

入所しているのかわからないほど元気な方ばかり、反対に母を見ているととても手がかかるし、

出されても仕方ない気がします。

でも、物を捨てるのとは訳が違い、やり方というものがあって当然です。

 

施設の相談員に「ここにはお友達がいて、お互い信頼しあえる人がいるから生きていけるのよ!

って母が言っていたのです。ですから、これからも施設にいさせてください。」

「もうあまり母の命が長くないのはわかっているので、ここに居させてください。」

「せめて次の居場所が見つかるまで居させてください。」とお願いしたけれど全て断られました。


その後も施設から「受診を」と言われ仕事を休んで病院に連れて行ったけれど、

幸い「なんでもない」との結果で入院には至りませんでした。

でも母は高熱が出やすい状態なのは変わりありません。

母の具合がいつまた悪くなるかもわかりません。

受診や入院にならないか、毎日ヒヤヒヤしていました。

もしも急性期病院に入院した時には、すぐに病院のソーシャルワーカーに相談しようとか、

無理とはわかっていても、施設の管轄の区役所や警察の電話番号をメモして助けを求めることも

考えていました。



施設のキーパーソンである私に対して、相談員の当たりが強くなり、意地の悪い言い方をされたり、

毎回のように怒鳴られました。

でも施設には母がいるし、母の新しい居場所を確保するためにはまず、施設の相談員が医療情報

などで動いてくれないと何も始まらないのです。

どこの病院に電話をしても「施設の相談員さんから連絡をくれるように言ってください」と

言われましたから。



「弱い立場の人間に対して、そういう態度が取れる人間、それも、こういう介護に関わる

仕事をしているのに、こういう人間もいるんだな…」と思いながら、グッと堪えて我慢して

いました。

母を預かってもらっていることに感謝しているのは間違いないですから、その気持ちだけを

伝えようと、電話で話す時は「すみません。ありがとうございます。笑顔。」のメモを見ながら、

何を言われても「すみません。ありがとうございます。」と、その言葉を何度も繰り返し

言っていました。

 

何度か受診させられて落ち着いた頃に、最終的に母の新しい行き先を決めました。

毎日、2時間お題目をあげて、あの、じっくりと話を聞いてくれた相談員さんのいる病院に決めたのです。

 

施設に電話をして、その病院に連絡を取ってくれるように相談員にお願いしました。

するとやはり「ご家族様が入院を希望するのですから、ご家族様が動いてください。」と言われました。

「それはそうかもしれないけれど、そもそも追い出そうとしているのは施設なのですし、

母を出したいのなら協力してくれても良いと思うのですが。。」

そう言いたいのをグッと堪えて「そうですか。あちらの相談員さんに施設の相談員さんから

電話がほしいと伝えてくれと言われたのですが。」と言うと「電話だけしてみます。」と。

「入院できるのか、ベッドの空きがあるのかもわからないけれど、よろしくお願いします。」

と言うと「そういうのは確認した方が良いですよ。」と。

入院が決まった段階ならまだしも、どこの病院に聞いても申し込みの段階で「空きがない」

「空きがある」とは言いません。

「その日によって変動がある」とどこからも同じことを言われました。

そういうことは全く知らないようです。本当に今までこういう相談に乗ったことがないようです。

 

施設の相談員が協力してくれないとなると「お手上げか?」と思い、涙が出てきてしまいました。

寒空に歩けない母と一緒に放り出されて行くところのない悲しいシーンが頭の中に浮かびます。

夕方、病院の相談員さんに電話をして「施設の相談員から家族が入院希望するのだから家族が動いてくれと言われました。」と言いました。

「そのようですね。とりあえず施設で出せるものをファックスしてくれるように言いました。それを先生に見せてOKなら入院になりますよ。」

その言葉を聞いて、「助かった!」と思いました。

全く何の資料も提出出来ないよりは、少しでも情報を出してくれた方が助かります。

ただ、きっと施設はあまり資料は出してくれないだろうと思い

「もし資料が足りなくて、それで入院が出来なくなってしまうのは嫌なので、

資料が足りない時は私に連絡をください。」と言いました。

 

ここまで施設の相談員が協力してくれないとなると、次はありません。

これは最初で最後のチャンスになると思います。

これを逃したら、「姥捨て山」行きです。

もう覚悟を決めるしかないのです。

 

少しして今度は施設の相談員から電話があり「看護サマリーを明日ファックスします。

あとは足りないものがあったら、ご家族様が用意するということで、あちらの相談員に

伝えていいですか?」と言われ、「はい。わかりました。お手数をおかけして申し訳ありませんが、

よろしくお願いします。」と返事をしました。

 

4日ほど日が経ち、病院の相談員さんから電話がありました。

「先生に見せて、これではわからないな~との事でしたが面談をすることになったので、

最近(母が)入院した〇〇病院の医療情報提供書がほしいのですが」とのことでした。

次の日、朝早く起きてその病院に行き、診療情報提供書の手続きをしました。

窓口の方の話では、出てくるのに一週間から10日もかかるとのこと。

それを相談員さんに伝えました。

「それでは診療情報提供書が出たら連絡をください。」

 

真剣にお題目をあげて祈りきります。

「どうか母の具合が落ち着いてくれますように。急性期病院には絶対に受診、入院しませんように。

この病院に早く面談出来て、そして早く、1日も早く、12月中旬、15日までには必ず入院させて

ください。出来れば15日よりも早くできるだけ早く入院させてください。施設から直接この病院に

入院できますように。」

 

 

一週間して診療情報提供書が出ているか電話で確認させてもらったら、まだ出ていません。

「先生に出してもらうように言いますね。」と事務の方が言ってくださいました。

先生、お忙しいところ申し訳ないです。よろしくお願い致します。

 

その日の夜に電話があり「診療情報提供書が出たので、いつでも取りに来てください。」と。

次の日の早起きして取りに行き、相談員さんに電話「診療情報提供書をもらったので

面談日の予約をさせてください。」

3日後の午前中に予約を入れることが出来ました。

帰宅してすぐに、コンビニからファックスで病院の相談員さんあてに送りました。

母はいつ高熱が出てもおかしくない状態です。

「どうかこの病院に入院するまで、なんとか状態が落ち着いて安定してほしい。

そして絶対この病院に入院できるように。」毎日、時間を見つけては真剣にお題目をあげました。

 

面談当日、一睡も出来なかったけれど小雨の中行ってきました。

相談員さんは「遠い中、雨で寒い中、大変でしたね。」

「診療情報提供書を取りに行かせてしまって申し訳なかったですね。」など

何度も労ってくださり、本当にありがたかったです。

 

母は施設で最近床ずれが出来てしまったそうで、「それで入院できなくなったらどうしよう。」

などと心配しながらも隠すことなどできないですから、恐る恐る、相談員さんに話しました。

「年寄は仕方ないとのことです。」と施設から言われたことをそのまま伝えると

「仕方ないって。。そう施設に言われたのですね。」とかなりびっくりした様子でした。

 

そして、面談で、ついに入院できることが決まったのです。

相談員さんは「施設に確認することがいくつかあります。それと、入院の時に施設の方でクルマを

出してくれるかどうかな?…って思っているところなんですよ。」

と相談員さんが少し悩んだように言うので

「たぶん、施設はクルマは出さないと思っています。家族の方でタクシーを予約しろと言うと

思います。」と言うと、

「まぁ、施設に電話してみますよ。入院日が決まったら電話します。施設にも連絡しますから。」

と言ってくださいました。

 

もうすぐ年の瀬がやってきます。

年末年始のことは考えたくない。クリスマスも年賀状も考えられない。

床ずれのこともあるし、入院が来年になったらどうしよう。

 

「母が落ち着いてくれますように。熱が出ないでほしい。」

 

いろいろ不安がよぎって、あの疑問符の付いた2日間から、ずっと不眠だし、

お腹の調子は悪いし胃が痛い、とても体調が悪いのですが倒れてなんていられません。

私自身、風邪をひかないように細心の注意を払いました。

 

一週間して「どうなったかな?まだ決まっていなかったら、せかすようで良くないかな?」 

と思いつつ、相談員さんに恐る恐る電話。

すると今日はお休みだとか。。

 

しばらくして、別の相談員さんから「3日後に入院が決まりました。」と連絡が入りました。

「こちらの病院でタクシーの手配も出来ますが、まずは施設に聞いてみてダメなら

タクシーの手配をしますか?」と。

家族は小さなことでも不安になりますから、そこまで、やってくださるのはとてもありがたいことです。

「はい。それでお願いします。」と言い電話を切りました。

「あぁ~。。良かった。。入院までお母さん、体調を崩さないで熱が上がらないで、

風邪をひかないでインフルエンザにならないで。。」

 

そしてすぐに今度は施設から固定電話と携帯に交互にワン切りで3回かかってきました。

ワン切りだから、どの電話に出ても既に切れています。。

もう何度も怒鳴られてばかりで恐怖心があり、施設からの電話は正直受けたくない心境ですが、

こちらから電話をしたら「今、病院から3日後に入院と電話が来ましたけど、娘さんからは

何も聞いてませんけど!」と、案の定、また怒鳴られました。

「私も今、電話をもらったところです。」最後の最後まで怒鳴られるなんて。。

 

確かに急かもしれないけれど、病院の入院ってそういうもののような気がするんですよ。

ベッドを調整するわけですから。

確かに施設側の準備が大変なんでしょうけれど。。

 

母を病院に入院させること、

それは母自身も病気を診てもらえるから、きっと良いはずだと私は信じているし、

家族も安心していられるし、そして今の施設にも願ってもないことでしょうから

「三方良し」なことだと思って頑張ってきたのです。

 

入院日、兄と2人で施設に行き、解約をして、看護サマリーの原本や薬、保険証類を

受け取りました。

そして「嘱託医の医療サマリーは速達で病院に送っているので確認してもらってください。」

と言われました。

母が入院した時の医療情報も何もかも全て、その病院から施設の嘱託医宛てに行っているので、

本当は看護サマリーと医療サマリーを一番最初にファックスして欲しかったです。

 

でも、母の介護はきちんとやってくれていたと思うので、それは感謝していますから

最後は感謝の言葉、「ありがとうございました。」を自分なりに言って施設を出発しました。

 

祈った通りに、施設から直接、母はこの病院に入院できるのです。

12月中旬の15日よりも早めの12月11日に入院できるのです。

 

青空で暖かい日で、とても穏やかな日です。

 

福祉タクシーのドライバーさんは本当に優しく丁寧でありがたかったです。

 

施設に入所している皆さん、母と仲良くしてくれてありがとうございました。

せっかく特養に入れたのですから、ずっといられるように、病気にならないでお元気でいてください。

 

施設の誰にも相談できなかった辛さ。

何もわからないで行動してきた辛さ。

この入所者さんたちのご家族には味わってほしくないです。

 

仕事を休まなくてはならない日も何度もあったし、いつ母の具合が悪くなって受診になるかも

わからない状況で常に緊張状態の日々でした。

仕事の予定が立たずご迷惑をおかけしましたがお客様皆様、嫌な顔せずご協力いただいて、

優しいお言葉もかけていただいて本当に感謝しています。

 

友達にも心配をかけました。

イケメン2人からの飲み会のお誘いも断っちゃった。

でも優しいの。「誰もが通る道だからね。」とすでに経験済みの言葉が響きました。

それから、やはり病院を転々としていたお父さんの話をしてくれた友達もいて、

そうだったなんて、全然知らなかったけれど、本当に誰もが通る道なんだなと思いました。

 

お客様からは「子供の務めですね。」という言葉が響きました。

すでにご両親とも他界されているそうで、そういう方の言葉って響きますね。

 

別のお客様から「恕」という言葉が書かれたお手紙をいただきました。

そのお客様は母のことは何も知らなかったので、なんという偶然、タイミングなのでしょうか。

この言葉の意味は「優しさ」「思いやり」「何事も許す心」だそうです。

怒鳴られていた時に、この言葉の意味をかみしめていました。

 

「何事も許す心」はまだ私は未熟者で、その気持ちになれないけれど、嫌な気持ちを流してしまう

ことはできます。

 

母と前を向いていきます。

母との残りの貴重な時間、安心して穏やかな会話が出来る場所があることに感謝します。

それは、周りの方の優しさがあったから、その方々に支えられ助けられ、今があるのだと思います。

兄弟でお題目をあげて乗り越えることが出来ました。

今回のことで、人の醜さも、世の中の理不尽さも知ったけれど、その反対にその何倍も

人の優しさや感謝する気持ちを知ることが出来ました。

そして、お題目の凄さも知りました。

きっと全て、母が身体を張って教えてくれたに違いありません。