冬は必ず春となる

苦難にあっても信じきり祈りきることで必ず道は開かれる

父が骨折、肺炎、肺がんを克服したのは母の為

お父さんが転んで大腿骨の半分を骨折して入院した時、肺炎にもなっていた。(2018.1.21~3.16)

 
入院する前からずっと咳が出ていたから、その時からもう肺炎だったのかもしれない。
その時は、お母さんが施設を追い出されそうになっていたので、実家に行けなかったけれど、すごく気になっていた。
 
お父さんは具合悪かったからボーッとしてしまって、トイレに行った時に転んだのかもしれない。
 
その入院の時も、肺の水がなかなか減らないとのことで、点滴しては少し良くなり、
また具合が悪くなって点滴をするの繰り返しで、リハビリ病院に転院するタイミングが取れず
二か月以内でないと転院できない決まりの中で、転院できるかどうかヒヤヒヤしていた。
 
今思うと、もしかしたらこの時にはもう肺に悪性腫瘍が出来ていて、
それで胸水が減らなかったのかもしれないな!と思っている。
殆どベッドで寝たきりの、長い入院生活でお父さんは廃用症候群にもなっていた。
笑わなくなり不機嫌だった。
 
それでもリハビリ病院に転院(3.16~2.29)してから、肺炎も良くなり、笑顔も見れる回数が増えた。
びっくりするくらい早く歩けるようになり、元気になっていった。
 
ただ、靴や靴下を履くリハビリをするのが嫌で、不機嫌になり拒否していたので、
靴下も履けないし、靴も自分で履くときは踏んずけて履く状態だった。
 
それでも歩けるようになり肺炎の症状も無くなって元気に退院した。
 
その後は兄が実家に住み込み、お父さんの面倒を見て、たまに自分のマンションに帰る生活をしていた。
兄は朝がすごく早い、お父さんが起きたときにはすでに出勤している。
でも帰りが5時30分くらいなので、帰って夕飯を作ってお父さんに食べさせてくれた。
 
私と妹は休みの日に実家に行って洗濯をしたり、掃除をしたり、お父さんの面倒をみていた。
トイレが上手く出来ないので、シーツやズボンや下着、トイレを汚す。
臭いがきつかった。
 
リハビリパンツを履きたがらない。説明して納得して履き始めるが、しばらくすると履かないと言い出す。その繰り返し。
リハビリパンツを履いても、トイレのたびに漏らすのでリハビリパンツがビショビショになる。
それを履き替えさせるのが、また大変だ。
お父さんにもプライドがあるから、シーツやズボンやパンツが汚れていても、何でもないような顔をして便の付いたシーツを洗濯し、トイレを洗う。
 
リハビリパンツもプライドを傷つけないように説明し取り換える。
自分の親だから、ビショビショになってグニュグニュになったリハビリパンツを触ってもなんとも思わなかった。
 
お風呂はデイサービスで入ることになっているが、デイサービスに行きたがらないのが困った。
「親戚が来る」と言って途中で帰ってきたことがあった。
デイの方がクルマで送ってきてくれたものの、本当に親戚が来るのか?帰らせて1人でいて、もし何かあったら?
ということでお父さんを「親戚が来るまで」と言ってクルマから降ろさないでいたら、怒り出したらしい。
 
背中に湿疹ができたときはベッドにダニがいると思い込んで、「ベッドに寝ない」と言い出した。
妹が業者に連絡して次の日にマットの交換をしてもらうようにお願いしたが、その日1日が大変だった。
 
畳に布団を敷いて寝るが、そうすると起き上がれないからだ。
兄は翌日の早朝に出勤で、私は翌日休みだったので仕事が終わって夕飯を食べてから家を出て
夜の10時ころに実家に着いた。2人ともすでに寝ていたので、ベッドのある部屋で私も寝ていると起きだすお父さんの声が聞こえたので、手伝っていると兄が起きてきて起こしてくれた。
その後は兄がマンションに帰って私が泊まり込み、お父さんがトイレに起きるたびに起き上がる手伝いをした。朝までに4~5回、トイレに行った。
次の日、業者が来てマットを交換してくれた。
お父さんが、ダニのクレームを不機嫌そうに言うが、なんとか誤魔化した。
業者が相談に乗ってくれた。
タクシーが乗れない短い距離、でも歩くのにはきつい距離、それが大変だ。
家を出て、すぐに「もう歩けない」と言い出すからだ。
業者が車椅子を提案したが、お父さんは「(車椅子に頼ったら歩けなくなるから)お母さんと車椅子に乗るのはやめよう!って話していたから車椅子には乗らない」と言う。
 
兄が休日の日に病院に連れて行き、薬をもらうのだが、歩くのが大変なので苦労したらしい。
私はお父さんとタクシーで杖を区役所に貰いに行った。
お父さんはすごく喜んでいたが、それを使いこなすように一緒に練習する時間がなかなか取れないし
たぶん長距離を歩くのは難しい。
 
使っていた補聴器が壊れたので区役所で支給される補聴器を、近くの耳鼻科にお父さんと貰いに行った。
家を出るとすぐに「もう歩けない」と言う、ごまかしごまかし反対側のバス停に連れて行く。
バスに乗り座ったと思ったらすぐに下りる、そこから徒歩1分。だけどお父さんには遠い。
階段もある。
中に入ったら大声で「こんなところまで連れてきやがって!」と怒鳴られた。
ふらついていたので椅子に座らせた。心臓がドキドキしたらしい。
受付の人が水を持ってきてくれたので飲ませて落ち着いてから診療。補聴器を貰った。
看護師さんから「お父さんの事、ちゃんと考えてあげないと」と言われた。
考えているから補聴器を貰いに来たんだけど、家庭の事情はちょっと見だけではわかるはずもない。
帰りは当然タクシーを呼んだ。
あんなに不機嫌だったお父さんから次の日電話が来て、「補聴器がよく聞こえる」と大喜びで上機嫌だった。
 
 
シルバーカーを買った。
お父さんは「男の人は誰も使っていない」と嫌がっていたが、兄が病院に連れて行くときはそれで行って「もう歩けない」と言い出したらシルバーカーに座らせて休憩させたらしい。
 
 
ある日の受診で悪性貧血と診断がおり、特殊な病気だからその病院では診れないということで
転んだ時に搬送、入院していた病院にまた入院となった。(8.31~10.10)
 
眼科に連れて行ったときには、それで心臓がドキドキしてふらついたのかもしれない。
 
お兄ちゃんとの生活は3か月くらいかな?
「1人で暮らせないし子供に迷惑をかける」と思ったらしく、何度も「施設に入りたい」と言っていた。
施設に入ると自由が無くなるから、入ったら「家に帰りたい」っていうのではないか?
できるだけ実家にいた方が自由で良いのではないか?と兄弟で話し、お父さんにも話した。
その時はそれで納得するが、時間が経つと「施設に入りたい」と言い出す。その繰り返しだった。
 
この入院で、またベッドに寝たきりの状態になった。
今度ばかりは歩けなくなるんじゃないかと心配していた。
なので、退院後はもう一緒に暮らすことを考えずに施設を探すことにした。
 
ソーシャルワーカーに相談すると、この時期はどこも老健がいっぱいだとのこと。
広い範囲で探してもらう。
ケアマネに相談すると15万くらいでも施設があると妹が言われたらしいが具体的な話ではない。
ネットで探してもそんなところは無かった。
 
2か月が経つ頃、ソーシャルワーカーから電話があり、「近くの老健で動きがあったから大至急電話した方が良い」と言われ
すぐに電話をした。
「家族と面談をしたい」と言われたが指定された日が仕事なので一回電話を切り、妹が行けることを確認して再度電話、約束を取り付けた。
 
妹には面会時に「特養に申し込む」ということを相談員に伝えてもらった。
 
ケアマネやソーシャルワーカーの話では、特養の話はした方が良いとのこと、1年近く入れてくれるらしいし3~4回くらい回れば特養に入れるとのことだった。
ケアマネから用紙を貰って特養のことをいろいろ聞いて、家に帰って記入、区役所に持って行って提出した。
老健に行くときの荷物をまとめておいた。
 
 
老健入所の日は兄と私が対応した。
実家に行き荷物を取りに行き病院へ。
数日前にお父さんに「病院から施設に行く」と言ったら「一回家に帰ってから」と怒り出した。
当日はソーシャルワーカー介護タクシーを頼んでくれたので車椅子でタクシーに乗り、施設の車椅子に乗り換えた。
施設で、意外と歩けるのを知りホッとした。
お父さんはタクシーの運転手がいきなり来て、お父さんをタクシーに乗せて施設に連れて行ったと思っていた。
私と兄も乗っていたのだけれど(笑)
 
靴を踏んずけていたのが気になり、翌日施設の人に「もし踏んずけていたら、自分では直せないので直してあげてください」とお願いの電話をした。
夕方介護士さんから電話があり「履きやすいズボンを持ってきて。下着も足りない。」と言われたので兄に下着を持って行ってもらいゴムのズボンをネットで注文。
丈が長いので、前のズボンと同じ丈にスーパーで直してもらった。
 
数日後、足りないようなのでさらに注文して今度はチクチクと縫った。
直してもらうと時間がかかるからだ。妹はパジャマを購入。
 
そんな感じでお父さんの施設生活が始まった。
数日後、今度は看護師さんから電話があり「お母さんの施設に行きたがっている」と。。
「子供たちは何度も病院に行っているが自分だけ行っていないから、子供に伝えてくれと言われた」と。
 
骨折した時にお父さんが目標にしていたのは、お母さんの病院に会いに行くことだった。
お母さんへのメッセージを撮ってと言われて動画を撮った。
「お母さん元気か?お父さんの方が元気いいぞ!お母さんが元気じゃないとダメなんだからな!会いに行くからな!待ってろよ!必ず会いに行くからな!」
今思えば、その目標があったからこそ、歩けるようにもなったし、肺炎、肺がん?も症状を抑えることが出来たのではないかと思っている。
お父さんはお母さんに会うために歩き、元気になったのである。
お母さんの方も、バルーンが取れ、表情に笑顔が戻り、おしゃべりに戻り、ジョーダンも増え、話すこともしっかりしていた。
動画を見せて喜んでいたがすぐに忘れる。
でもきっと何か残るものがあって、あんなに頭をはっきりさせて待っていたんだと思う。
 
私と旦那でお父さんを連れて行った。
タクシーに乗り、病院から比較的近い夢庵に行ってまずは昼食をとった。
予め調べてあった夢庵は1階にあり、多機能トイレもあるから安心だった。
それでも私がトイレに行っているときに、急にトイレに立ってしまって旦那が慌てて付いていったらしい。
昼食後またタクシーを呼んでそこから病院へ。
 
2人の状態が良くなっての再会はまるで、実家で家族で楽しくおしゃべりしているような感覚で、不思議だなと思った。
お父さんを見てお母さんが「私の一番大事な人だからね」と言ったらお父さんがニヤッと笑った。
お父さんが施設に入ったことを報告し、「年をとったら今はそういう時代なんだよ。入院したから施設に上手く入れた。俺は運が良かったよ。」みたいな話をした。そして「家も出て行くことになるよ。」と言ったと思う。
施設のお金をお母さんが心配していたので「それは大丈夫なんだってよ!」と私が付け加えた。
お母さんは「それならいいけど」と言っていた。そろそろ帰ろうとお父さんとトイレに行って戻ってきて「帰るね」と言ったけど、お母さんはもう、お父さんが来ていたことも忘れていたのだろう、お母さんにとっては、今お父さんと会ったばかりなのに「帰るね」と言われて戸惑っているようだった。
その後もお母さんの面会に行くとその時撮った写真を見せて「お父さんがここに来たのよ」と教えてあげた。
 
お父さんを連れての帰りも、病院からタクシーに乗り施設に。
やはり「東京から病院にお見舞いに来た家族を乗せることが度々ある」と運転手が行っていた。
「ここはずっといられるからと言っていた」と。。
みんな、そういう病院を探すのが大変なのだ。
 
両親の嬉しい再会から、1~2か月でお母さんが肺炎になった。
だから、この日のために2人でお互いに元気になっていたのかな?と今では、そう思っている。
 
そして、あんなに元気だったお母さんが、その後、急に肺炎になり亡くなったのも、お父さんの介護が始まったから、子供たちが親2人の介護をするのは大変だろう!と思って「それなら、私が先に行くわ」と旅立ったのだと思っている。