冬は必ず春となる

苦難にあっても信じきり祈りきることで必ず道は開かれる

父の日

2019.6.17

 

少し遅めの父の日と言うことで、父とデートしてきました( *´艸`)

 

ショッピングモールの中のレストラン街を歩いて、父が選んだお蕎麦屋さんに入店。

天婦羅そばを注文しました。

 

お蕎麦が大好きな父はご満悦。

お蕎麦も美味しいし、天婦羅もサクサクだって喜んでいました。

天婦羅多めで父は食べきれず、「これ食べて!」と言うので、自分の分でお腹がいっぱいだったけど、父の天婦羅3つも美味しくいただきました。(*^^*)

 

その後は周辺をお散歩したりベンチに座ってボーっとして、ゆっくり過ごし、アイスを食べたりコーヒーを飲んだり。

コーヒーは少ししか飲まなかったけどアイスは美味しい美味しいと言って喜んでいました。

 

ペットショップではワンちゃん猫ちゃん、熱帯魚にオウムにハムスターを見て回り…動物を見るとやはり笑顔が出ますね。(*^^*)

 

施設に帰って介護士さんに「何を食べましたか?」と聞かれたので父に「何を食べたっけ?」と聞いたら、もう忘れてる(;^_^A

あんなに「美味しい」って言ってたのに(笑)

 

私は父の分も天婦羅を食べて、夜になってもお腹が空きません(笑)(;^_^A

 

でも、親子で楽しく、良い時間が持てました。

 

前癌病変③

セカンドオピニオンは時間が決まっている。

かなりお高めの値段になっていて、決まった時間を過ぎたら追加料金が発生するシステムだ。

 

やったことが無いからかなり不安があったので、別の病院もう1つの候補があったのだが、そこの病院の中に癌相談室と言うのがあったので、そこにセカンドオピニオンの相談をしようと電話をした。

 

セカンドオピニオンは先生も慣れているので大丈夫です」と言われただけで、あまり親身に相談に乗ってくれなかったので、そこの病院にセカンドオピニオンをするのはやめたのだ。

 

K病院にセカンドオピニオン当日。

かなり緊張していたが、病院の方々が優しかったのと先生までがニコニコしている先生で小さなことまでとても聞きやすかった。

これまでの経緯を自分なりに説明し子宮を取る場合の手術法を聞く。

開腹以外に2つの方法があり、その違いがよく分からなかったのだが、図を描いて説明してくれた。

今の状態も説明してくれて、やっと自分の身体がどんな状態なのかわかった。

子宮を取るということは、それだけ身体に負担を与えることになるから、今の段階で考えなくても良いのではないか、と説明された。

今度、高度異形成になった時に、どういう治療をしたらよいのか?と聞くと「手術はせずに焼く方法があるから、私ならそちらをお勧めします。」みたいな治療法を言われた。

「最後にN病院の先生にお手紙を書くから持って行ってくださいね」と言われ退室。

廊下で待っているとお手紙を渡され、お礼を言った。

病院の方にもお礼を言い、清算をして帰宅した。

 

後日、N病院の検査結果の時にお手紙を渡し、「K病院の手術法で手術をしたいから転院したいので、紹介状をお願いします」というと「また書くの?」と言われた。

もう我儘患者に見られているのだから、自分の命だから、自分の考え通りにいかせてもらいます。

 

数日後、受付に言われた時間に紹介状を取りに行くと預かっていないという。

それから何時間も待っても呼ばれない。

受付に言うと「F先生に書いてもらいます」と言う。

これまた知らない先生だった(笑)

 

K病院はパネルがあって次に呼ばれる患者の番号が出る。

だから、それが出るまではトイレにも行ける。

看護師さんが来て「セカンドオピニオンした先生が普通は担当になるんですけれど、その先生が金曜日なんですよ。どうしますか?今回は別の先生にお願いしますか?」と聞きに来た。

「金曜日は仕事がある曜日なので、今日お願いしたいのです」と言う話をして検査をしてもらったが、やはり先生から「セカンドオピニオンをした〇〇先生に担当してもらった方が良い」と言われ、次回から金曜日に行くことにした。

 

どうせなら、あの詳しく説明してくれたニコニコ笑顔の先生が安心できる。

 

ここの病院は予約時間でたいたい診てもらえる。

前の病院は10時に予約したとしても2時半とか3時とか夕方近くになることも多かった。

「先生が手術が入ってしまって午後に来るのでお昼を食べてきてください。午後一番に呼びますから」と言われて昼食をとり戻ってきても、さらに何時間も待って、結局別の先生に診てもらったりしていた。

 

この病院は朝一番で予約を入れたら、だいたいその時間に診てもらえる。

だから患者が穏やかな顔をしている。

待合の空気が全然違う。

 

金曜日に結果を聞きに行くと、あの笑顔で迎えてくれた。

結果はやはり中程度だった。

でも、安心感がある。

毎回同じ先生が、ちゃんとわかるように説明してくれるだけで安心だった。

 

精神的にも安定して病気も良い方向に行った。

中程度が少しすると低度になり、それが消えた。

それと共に検査方法もパンチで取る方法ではなく細胞診だけになった。

検査の感覚も3か月から半年になり1年になった。

 

そして今回、とうとう卒業することが出来た。

たぶん前の病院にいたら精神的に参ってしまって、病状もどんどん悪くなっていた気がする。

 

嫌な顔をされようが、自分の身体は自分が守らなければ!

自分を通して良かった。

 

セカンドオピニオンはした方が良い!テレビの健康番組で偉い先生が言っていたが、現実は病院や先生のプライドがあるのかもしれない。。と言うことを知った。

 

それと、癌治療をすると転院するのは難しいということを知った。

癌の治療をするなら、しっかり情報を集めて考えてどこの病院にしたら良いのか考え、自分で納得して決めた方が良いと思う。

 

自分の病気では毎日泣いていた。

夜になると体が疲れるのかすごく悲しくなるので、好きなアーティストの曲を一曲聴いて心を静め、早めに寝ていた。

 

毎日、お題目を真剣にあげて情報収集し、考え、行動していた。

泣いてばかりだった私が、いつしか覚悟を決め自分の命を守るために全力を尽くそうと思った。

同じ1時間なら、泣いて過ごすより笑って過ごした方が良い。

後悔のないように考え全力で動く。

 

お題目を上げることにより、自分の中の考えがまとまり、力が出て行動できた。

 

大変な経験だったけれど無駄ではない、成長できたと思っている。

 

そして、この経験があったからこそ、親の介護も乗り越えられたと思っている。

 

親の介護も、私や兄弟が成長するのに必要だった。貴重な経験だったと思っている。

 

 

 

 

前癌病変②

この病院に来て毎回のように先生が変わっている。

 

A先生、最初にここにきて検査した時の先生、その結果と手術の説明、予約をした。

B先生、手術をした先生。

C先生、入院してから手術前後の検査をした先生。

 

そして退院後初めての検査と検査結果はC先生だった。

その時の結果は「良いです」

これから3か月ごとに検査をしていきます。

 

だけれど、C先生がまたその次の検査と検査結果を担当してくれたのだけれど、

この先生、非常に口数が少ないのか、説明がうまく出来ないのか、検査結果が「ダメでした」だけで詳細が無い。

そして、「子宮を取った方が良いんじゃないですか」と言われた。

 

「子宮を取る?」もう帰りの頭の中はショックでかなり落ち込んでいた。

ダメです。と言うことは再発ってことなのか。

子宮を取ることを勧められたわけだから、子宮を取った方が良いんだろう。

毎日いろいろ考え、涙が出てしまった。

 

C先生は産科の方に移動になると言っていた。

 

子宮頸がんについての本を買ってみた。

癌になってしまうと大きな手術になり、子宮だけでなく卵巣まで取らなくてはならない。

そうなるとリンパ浮腫が出やすくなり、足が浮腫むことが多々ある。

とてつもなく太い脚の写真が本に載っていた。

また、尿も出にくくなり自分で器具を使って尿を取らなければならなくなることもある。

便を漏らすようになることもある。

 

そうなると仕事も生活も今まで通りにはいかなくなる。

外出も制限されて難しくなる。

確かに子宮を取ってしまえば子宮の癌にはならない。

大きく手術をしなくてはならなくなる前に、子宮だけを取ってしまった方が良いのかもしれない。

 

癌患者の生存率が高くなってきた!と聞くが、生きていても生活が制限されて誰にも会いに行けない、楽しみも無い生活では生きていても仕方がないと思った。

 

この本を書いた先生の病院、ここにセカンドオピニオンをしたい!

次の検査まで、3か月なんて待っていられない。

N病院に電話をして「紹介状が欲しい!」と受付の人にお願いした。

 

数日後、D先生から電話がかかってきた。

セカンドオピニオンをしたい!って、それってどういう意味か分かっているの?」と先生が言った。

「子宮を取った方がいいので、セカンドオピニオンしたいんです」と私が言うと、

「なんで子宮を取るの、そんなことはしなくて良いから、僕が今度診てあげるから!」と言われた。

 

次の検査、D先生が診てくれた。

「こんなことでセカンドオピニオンだなんてしたら、その先生に笑われるよ!」と言われた。

子宮を取りたいことを伝えて、この病院での手術法を聞いたりもした。

でも先生は「子宮なんて取らなくていいでしょ」と言う。

でも、それは、もともとはここの病院のC先生が言い出したことだ。

 

このD先生がまた、とんでもない先生だった。

この病院はチームを組んでいて診療、治療をする。

その1つのチームの一番偉い先生だった。

一番偉いということは、忙しいということ。

次にその検査結果を聞きに行った時には、違うE先生が説明した。

「細胞異形成低度です。2か月後にまた検査に来てください」と言われ、

「今までは3か月後だったけれど、今度は2か月後ですか?」と聞き返すと

「そうですよ。再発なんですから2か月ごとに検査をしなくてはなりません」と言われた。

 

今度は「再発」と言う言葉をきっちり聞いた。涙が出てくる。

 

もうずっとお題目を1時間以上毎日あげていた。

毎日、涙が出てくる日々が続いた。

命と言うものに向き合い、なんで人は生まれてくるのか?と思った。

お題目をあげているうちに、人は幸せになるために、そして誰かを幸せにするために生まれてくるんだと思った。

 

自分の命を守るためにお題目を上げながら、ネットで情報を集めて、子宮頚癌に強い病院を探した。

手術法もいろいろあるが、詳しいことがよくわからなかった。

 

2か月後に検査に行くとD先生にセカンドオピニオンをしたいと言った。

セカンドオピニオンをしたいってことは、どういうことだかわかっているの?この診療に不満があるってことだよ!危ないところを手術したんだよ!危なかったんだよ!」と不機嫌そうに言う。

つまりは自分のプライドを傷つけられるから、セカンドオピニオンさせたくないわけなのだ。

「でも再発してしまったので。」と言うと「再発って」と馬鹿にしたように言う。

でも再発って言ったのは、ここの病院のE先生だ。

「2か月ごとに検査をするんですよね」と言うと「ここの病院では3か月ごとの検査です。2か月だなんてしません。」と言われた。

 

ここの病院は60代のこの偉い先生、50代の手術してくれた先生以外、検査や結果を説明する外来の先生は20代前半の大学を卒業したてのホヤホヤ先生しかいないみたいだった。

中間層のバリバリの30代40代がいない。。

だから説明も上手く出来ないし、頓珍漢なことを言う。

患者の私は何を信じていいのかわからないし、悪い方向で物事を考えて精神的に参ってしまうし、振り回されてしまう。

 

「子宮を取りたいんです。その手術方法を他の病院では違う方法もあるようなので、それが知りたいんです。ここは開腹手術だけですよね」というと「開腹手術なんて、ちょっと10センチ切るだけじゃない」と言われた。

 

「この病院に不満があるんじゃなくて手術法が知りたいだけなんです」と言って譲らず、紹介状をお願いした。

「書いておくから取りに来て!」

  

本当はセカンドオピニオンのタイミングをいつにすれば良いのか、そういうのも含めて相談したかったのだが、ここの病院の雰囲気そのものがもう私をどうしようもない我儘な患者のような目で見ている。

病院のプライドって、患者の命より大事なのかな?

 

紹介状をFAXでセカンドオピニオン先のK病院に送ると、電話が来て手術で取った検体がほしいのでN病院に言ってくださいとのことだった。

 

N病院の受付に電話をするとD先生が不在なので先生と連絡を取ってくれると言われた。

少したって受付から電話が来て「N病院では検体を患者に渡すということはしていません!」と先生が言ったであろうそのままの言葉をピシャリと言われた。

まぁ、そりゃそうだろう。保存なども含め、検体を私が預かれるわけはない。

でも、よほどこの病院にとって私が厄介者なんだろうな。

人を思いやる気持ちが言葉の中に全くないな。

そう思いながらK病院に電話をすると、「あとは直接N病院と話をしますので、大丈夫ですよ。どこに連絡すればよいのか教えていただけますか?」と言われ、婦人科の受付の人の名前を告げた。

 

そして数日後にK病院から連絡があり、セカンドオピニオンの日時が決まった。

 

 

 

前癌病変 ①

12月17日(火)にやっとK病院での経過観察を卒業できた。

 

5年前になると思う、その時は仕事とセミナーなどでだいぶ疲れていた時期だ。

 

健康診断、子宮がん検診、乳がん検診は毎年していたが、前の年に子宮がん検診をした時に先生から「子宮頸がんは若い人がなるから、今までならなかったから、もう検査しなくても良いんじゃないかと思うよ」と言われていた。

 

なので「今年はやらなくても良いのかな?どうしようかな?」と悩み、「先生に相談してみよう」と思って、いつもの近くのクリニックに行った。

先生に相談すると「やった方が良いかも」と言われ、検査を受けた。

数日後、結果を聞きに行くと陽性で、さらに詳しい検査をした。

その結果は結構悪いウィルスらしく、紹介状を書いてくれると言われた。

この時に前年に先生に言われたことを信じて検査を受けていなかったら大変なことになっていた。

検査を受けて良かった。

病院をどこにするか聞かれ、周辺の病院をいくつか言われた。

その中で一番大きいN病院を指定、紹介状を書いてもらい、予約を入れてもらった。

 

当日は旦那に付き添ってもらったが、予約時間をとうに過ぎても呼ばれない、かなりの時間が過ぎていく。

旦那が用事があるというし先に帰ってもらった。

ネットで調べると精密検査はちょっと怖い感じで1人では不安だったが仕方がない。

呼ばれると若い男の先生だった。

検査をしたが、痛みは無くホッとした。

 

翌週くらいに結果を聞きに行った。

ここの病院はかなり待つ、早朝、受付が始まる前から椅子に座って並んで待っているが、予約時間など関係なしにものすごく待たされる。

それにいつ呼ばれるかわからない。

だから、待っている人たちはなんとなく、みんな厳しい緊張した顔をしている。

 

やっと呼ばれて旦那と行くと先生が結果を見て、「手術になりますので、最初に予約を取ってしまいますね」と。。

旦那はこんな大変な病気とは思っていなかったのだろう「えっ!」とびっくりしていた。

なるべく早い手術日の予約を入れ、それから検査結果、病気の説明、手術方法、書類などの説明をされた。

 

病名は子宮高度異形成、子宮頸がんの前癌病変で、軽度、中度、高度とあるが、私の場合はすでに高度までいっていた。

毎年、子宮がん検査をしていたにもかかわらず、高度になってやっと発見されたのだ。

つまり今は上皮の上だけの病変だが、それが中に入り込んでしまえば癌となる。

大きな手術が必要になり、後遺症も出やすい。全身に癌細胞をまき散らしたりもする。

手術日までに進行したらどうしよう!という不安はあった。

お題目をあげた。

 

入院の日には、旦那には仕事をしてもらって1人で入院することにした。

大きな荷物は駅まで旦那が付き添って運んでくれた。

朝早くから行ったのに、その日も散々待たされ入院時間はお昼を過ぎ、部屋に入れてもらったのが午後の1時30分ころになっていた。

同じ日に入院の人が気分が悪くなっていた人も見かけた。

入院するほどの具合が悪い人を、何時間も待たせる病院に違和感があった。

 

翌日は手術なので、説明を受けたり検査を受けたりしていた。

 

手術当日、旦那が来てくれた。

準備をして、ストレッチャーに乗り、いよいよ手術室へ。

背中から麻酔をされた。足の感覚は無くなったが意識がはっきりしている。

大概の人は寝てしまうらしい(笑)

意識がある分、作業がわかって怖いかと思ったら、大丈夫だった。

工場のような手術室で、工場での作業のような手術だった(笑)

 

1日に3~4人くらいの手術があったらしい。

私は2番目でストレッチャーが集中治療室なのか?に次々と運ばれてきた。

お隣の人が痛みを訴えて痛み止めをお願いしていたが私は大丈夫だった。

 

しばらくして看護師さんに連れられて部屋に歩いて戻った。

 

先生が夕方に来て、手術の説明かなにかしてくれたのでお礼を言った。

「明日、退院前の検査をしますが、お昼は食べますか?」と聞かれた。

「食べずに早く帰りたければ、早朝に検査しますよ」と言うことだった。

1人での退院だから体力のあるうちに帰りたい。

早朝の検査でお願いした。

 

朝、寝ているうちに起こされ、検査をした。

看護師さんに「お昼は食べますか?」と言われ「要りません」と断った。

なのに、清算の用紙がこない。お昼を過ぎ、みんなは食事を終えているのにこない。

退院まで待たされたのだ。

清算の用紙がやっと来て1階で清算し戻ってきても、点滴用の針とチューブを外してくれない。時間ばかりが経っていく。

着替えようとしたが無理だったので、さすがにナースステーションに行き「もう、とっくに清算も終えているので取ってもらって良いですか?」と言い、取ってもらって着替え、体重をはかりお礼を言って病院を出てきた。

 

お腹もすいているし、なんだか空しかった。

 

父が骨折、肺炎、肺がんを克服したのは母の為

お父さんが転んで大腿骨の半分を骨折して入院した時、肺炎にもなっていた。(2018.1.21~3.16)

 
入院する前からずっと咳が出ていたから、その時からもう肺炎だったのかもしれない。
その時は、お母さんが施設を追い出されそうになっていたので、実家に行けなかったけれど、すごく気になっていた。
 
お父さんは具合悪かったからボーッとしてしまって、トイレに行った時に転んだのかもしれない。
 
その入院の時も、肺の水がなかなか減らないとのことで、点滴しては少し良くなり、
また具合が悪くなって点滴をするの繰り返しで、リハビリ病院に転院するタイミングが取れず
二か月以内でないと転院できない決まりの中で、転院できるかどうかヒヤヒヤしていた。
 
今思うと、もしかしたらこの時にはもう肺に悪性腫瘍が出来ていて、
それで胸水が減らなかったのかもしれないな!と思っている。
殆どベッドで寝たきりの、長い入院生活でお父さんは廃用症候群にもなっていた。
笑わなくなり不機嫌だった。
 
それでもリハビリ病院に転院(3.16~2.29)してから、肺炎も良くなり、笑顔も見れる回数が増えた。
びっくりするくらい早く歩けるようになり、元気になっていった。
 
ただ、靴や靴下を履くリハビリをするのが嫌で、不機嫌になり拒否していたので、
靴下も履けないし、靴も自分で履くときは踏んずけて履く状態だった。
 
それでも歩けるようになり肺炎の症状も無くなって元気に退院した。
 
その後は兄が実家に住み込み、お父さんの面倒を見て、たまに自分のマンションに帰る生活をしていた。
兄は朝がすごく早い、お父さんが起きたときにはすでに出勤している。
でも帰りが5時30分くらいなので、帰って夕飯を作ってお父さんに食べさせてくれた。
 
私と妹は休みの日に実家に行って洗濯をしたり、掃除をしたり、お父さんの面倒をみていた。
トイレが上手く出来ないので、シーツやズボンや下着、トイレを汚す。
臭いがきつかった。
 
リハビリパンツを履きたがらない。説明して納得して履き始めるが、しばらくすると履かないと言い出す。その繰り返し。
リハビリパンツを履いても、トイレのたびに漏らすのでリハビリパンツがビショビショになる。
それを履き替えさせるのが、また大変だ。
お父さんにもプライドがあるから、シーツやズボンやパンツが汚れていても、何でもないような顔をして便の付いたシーツを洗濯し、トイレを洗う。
 
リハビリパンツもプライドを傷つけないように説明し取り換える。
自分の親だから、ビショビショになってグニュグニュになったリハビリパンツを触ってもなんとも思わなかった。
 
お風呂はデイサービスで入ることになっているが、デイサービスに行きたがらないのが困った。
「親戚が来る」と言って途中で帰ってきたことがあった。
デイの方がクルマで送ってきてくれたものの、本当に親戚が来るのか?帰らせて1人でいて、もし何かあったら?
ということでお父さんを「親戚が来るまで」と言ってクルマから降ろさないでいたら、怒り出したらしい。
 
背中に湿疹ができたときはベッドにダニがいると思い込んで、「ベッドに寝ない」と言い出した。
妹が業者に連絡して次の日にマットの交換をしてもらうようにお願いしたが、その日1日が大変だった。
 
畳に布団を敷いて寝るが、そうすると起き上がれないからだ。
兄は翌日の早朝に出勤で、私は翌日休みだったので仕事が終わって夕飯を食べてから家を出て
夜の10時ころに実家に着いた。2人ともすでに寝ていたので、ベッドのある部屋で私も寝ていると起きだすお父さんの声が聞こえたので、手伝っていると兄が起きてきて起こしてくれた。
その後は兄がマンションに帰って私が泊まり込み、お父さんがトイレに起きるたびに起き上がる手伝いをした。朝までに4~5回、トイレに行った。
次の日、業者が来てマットを交換してくれた。
お父さんが、ダニのクレームを不機嫌そうに言うが、なんとか誤魔化した。
業者が相談に乗ってくれた。
タクシーが乗れない短い距離、でも歩くのにはきつい距離、それが大変だ。
家を出て、すぐに「もう歩けない」と言い出すからだ。
業者が車椅子を提案したが、お父さんは「(車椅子に頼ったら歩けなくなるから)お母さんと車椅子に乗るのはやめよう!って話していたから車椅子には乗らない」と言う。
 
兄が休日の日に病院に連れて行き、薬をもらうのだが、歩くのが大変なので苦労したらしい。
私はお父さんとタクシーで杖を区役所に貰いに行った。
お父さんはすごく喜んでいたが、それを使いこなすように一緒に練習する時間がなかなか取れないし
たぶん長距離を歩くのは難しい。
 
使っていた補聴器が壊れたので区役所で支給される補聴器を、近くの耳鼻科にお父さんと貰いに行った。
家を出るとすぐに「もう歩けない」と言う、ごまかしごまかし反対側のバス停に連れて行く。
バスに乗り座ったと思ったらすぐに下りる、そこから徒歩1分。だけどお父さんには遠い。
階段もある。
中に入ったら大声で「こんなところまで連れてきやがって!」と怒鳴られた。
ふらついていたので椅子に座らせた。心臓がドキドキしたらしい。
受付の人が水を持ってきてくれたので飲ませて落ち着いてから診療。補聴器を貰った。
看護師さんから「お父さんの事、ちゃんと考えてあげないと」と言われた。
考えているから補聴器を貰いに来たんだけど、家庭の事情はちょっと見だけではわかるはずもない。
帰りは当然タクシーを呼んだ。
あんなに不機嫌だったお父さんから次の日電話が来て、「補聴器がよく聞こえる」と大喜びで上機嫌だった。
 
 
シルバーカーを買った。
お父さんは「男の人は誰も使っていない」と嫌がっていたが、兄が病院に連れて行くときはそれで行って「もう歩けない」と言い出したらシルバーカーに座らせて休憩させたらしい。
 
 
ある日の受診で悪性貧血と診断がおり、特殊な病気だからその病院では診れないということで
転んだ時に搬送、入院していた病院にまた入院となった。(8.31~10.10)
 
眼科に連れて行ったときには、それで心臓がドキドキしてふらついたのかもしれない。
 
お兄ちゃんとの生活は3か月くらいかな?
「1人で暮らせないし子供に迷惑をかける」と思ったらしく、何度も「施設に入りたい」と言っていた。
施設に入ると自由が無くなるから、入ったら「家に帰りたい」っていうのではないか?
できるだけ実家にいた方が自由で良いのではないか?と兄弟で話し、お父さんにも話した。
その時はそれで納得するが、時間が経つと「施設に入りたい」と言い出す。その繰り返しだった。
 
この入院で、またベッドに寝たきりの状態になった。
今度ばかりは歩けなくなるんじゃないかと心配していた。
なので、退院後はもう一緒に暮らすことを考えずに施設を探すことにした。
 
ソーシャルワーカーに相談すると、この時期はどこも老健がいっぱいだとのこと。
広い範囲で探してもらう。
ケアマネに相談すると15万くらいでも施設があると妹が言われたらしいが具体的な話ではない。
ネットで探してもそんなところは無かった。
 
2か月が経つ頃、ソーシャルワーカーから電話があり、「近くの老健で動きがあったから大至急電話した方が良い」と言われ
すぐに電話をした。
「家族と面談をしたい」と言われたが指定された日が仕事なので一回電話を切り、妹が行けることを確認して再度電話、約束を取り付けた。
 
妹には面会時に「特養に申し込む」ということを相談員に伝えてもらった。
 
ケアマネやソーシャルワーカーの話では、特養の話はした方が良いとのこと、1年近く入れてくれるらしいし3~4回くらい回れば特養に入れるとのことだった。
ケアマネから用紙を貰って特養のことをいろいろ聞いて、家に帰って記入、区役所に持って行って提出した。
老健に行くときの荷物をまとめておいた。
 
 
老健入所の日は兄と私が対応した。
実家に行き荷物を取りに行き病院へ。
数日前にお父さんに「病院から施設に行く」と言ったら「一回家に帰ってから」と怒り出した。
当日はソーシャルワーカー介護タクシーを頼んでくれたので車椅子でタクシーに乗り、施設の車椅子に乗り換えた。
施設で、意外と歩けるのを知りホッとした。
お父さんはタクシーの運転手がいきなり来て、お父さんをタクシーに乗せて施設に連れて行ったと思っていた。
私と兄も乗っていたのだけれど(笑)
 
靴を踏んずけていたのが気になり、翌日施設の人に「もし踏んずけていたら、自分では直せないので直してあげてください」とお願いの電話をした。
夕方介護士さんから電話があり「履きやすいズボンを持ってきて。下着も足りない。」と言われたので兄に下着を持って行ってもらいゴムのズボンをネットで注文。
丈が長いので、前のズボンと同じ丈にスーパーで直してもらった。
 
数日後、足りないようなのでさらに注文して今度はチクチクと縫った。
直してもらうと時間がかかるからだ。妹はパジャマを購入。
 
そんな感じでお父さんの施設生活が始まった。
数日後、今度は看護師さんから電話があり「お母さんの施設に行きたがっている」と。。
「子供たちは何度も病院に行っているが自分だけ行っていないから、子供に伝えてくれと言われた」と。
 
骨折した時にお父さんが目標にしていたのは、お母さんの病院に会いに行くことだった。
お母さんへのメッセージを撮ってと言われて動画を撮った。
「お母さん元気か?お父さんの方が元気いいぞ!お母さんが元気じゃないとダメなんだからな!会いに行くからな!待ってろよ!必ず会いに行くからな!」
今思えば、その目標があったからこそ、歩けるようにもなったし、肺炎、肺がん?も症状を抑えることが出来たのではないかと思っている。
お父さんはお母さんに会うために歩き、元気になったのである。
お母さんの方も、バルーンが取れ、表情に笑顔が戻り、おしゃべりに戻り、ジョーダンも増え、話すこともしっかりしていた。
動画を見せて喜んでいたがすぐに忘れる。
でもきっと何か残るものがあって、あんなに頭をはっきりさせて待っていたんだと思う。
 
私と旦那でお父さんを連れて行った。
タクシーに乗り、病院から比較的近い夢庵に行ってまずは昼食をとった。
予め調べてあった夢庵は1階にあり、多機能トイレもあるから安心だった。
それでも私がトイレに行っているときに、急にトイレに立ってしまって旦那が慌てて付いていったらしい。
昼食後またタクシーを呼んでそこから病院へ。
 
2人の状態が良くなっての再会はまるで、実家で家族で楽しくおしゃべりしているような感覚で、不思議だなと思った。
お父さんを見てお母さんが「私の一番大事な人だからね」と言ったらお父さんがニヤッと笑った。
お父さんが施設に入ったことを報告し、「年をとったら今はそういう時代なんだよ。入院したから施設に上手く入れた。俺は運が良かったよ。」みたいな話をした。そして「家も出て行くことになるよ。」と言ったと思う。
施設のお金をお母さんが心配していたので「それは大丈夫なんだってよ!」と私が付け加えた。
お母さんは「それならいいけど」と言っていた。そろそろ帰ろうとお父さんとトイレに行って戻ってきて「帰るね」と言ったけど、お母さんはもう、お父さんが来ていたことも忘れていたのだろう、お母さんにとっては、今お父さんと会ったばかりなのに「帰るね」と言われて戸惑っているようだった。
その後もお母さんの面会に行くとその時撮った写真を見せて「お父さんがここに来たのよ」と教えてあげた。
 
お父さんを連れての帰りも、病院からタクシーに乗り施設に。
やはり「東京から病院にお見舞いに来た家族を乗せることが度々ある」と運転手が行っていた。
「ここはずっといられるからと言っていた」と。。
みんな、そういう病院を探すのが大変なのだ。
 
両親の嬉しい再会から、1~2か月でお母さんが肺炎になった。
だから、この日のために2人でお互いに元気になっていたのかな?と今では、そう思っている。
 
そして、あんなに元気だったお母さんが、その後、急に肺炎になり亡くなったのも、お父さんの介護が始まったから、子供たちが親2人の介護をするのは大変だろう!と思って「それなら、私が先に行くわ」と旅立ったのだと思っている。
 

父の散骨

だいぶ経ってしまったが11月26日(火)の午後2時ごろにお父さんの散骨だった。

委託していたのだが、お母さんの時も丁寧にしてくれたようなので大丈夫と思う。

 

お母さんの時もそうだったが、お天気が悪く寒い日だった。

 

勤行をして、題目もいっぱいあげていた。

 

お母さんの時もそうだったが、お父さんがいつもそばにいる気がしている。

 

部屋がミシミシ音がするのは、お父さんがいるからだと思っている。

きっと見守ってくれているのだと思う。

 

ありがとう。

 

たまにユーチューブで、お父さんの好きだった民謡を聴いている。

たぶん近くで聴いていると思っている。

 

特養は妹が荷物を引き上げ、送られてきた書類に記入し返送してくれたので、これで契約解除となった。

 

お父さんは9月3日(火)に入所して次の日に具合が悪くなり、一週間程いた施設では、ほとんど寝て過ごしていた。

食事もとれず、栄養ドリンク?を飲んでいた。

そして17日(火)に入院してしまったので、施設で楽しく過ごしたとか、そういうのは無かったけれど、ここの施設は人が良かった。

 

何かがあった時こそ、施設の良し悪しってよくわかる。

お母さんのいた施設とは全く違って良い施設だった。

 

病院が隣だからとはいえ、様子を見に行ってくれて病状も知ってくれていたし、

報告がてら相談に行ったら、じっくり話を聞いてくれた。

 

ここはお父さんの好きなお蕎麦が出るらしかった。

天ぷら蕎麦は出ないけれど、とろろ蕎麦が出るらしい。

お父さんは、とろろ蕎麦も好きだったから、きっと喜んだに違いない。

 

だから、あと1~2年くらい、お父さんにこの施設で楽しんでほしかったな。